History of Napa Wine
ナパの歴史に数々のドラマあり
知るほどにナパワインの魅力が増す。
停滞期から再生期
1890年代〜1970年代
前回は、躍進するナパワインの創成期についてご紹介いたしました。
ゴールドラッシュのブームに始まり、順調に発展を続けていたナパ・ヴァレー。
賑わいを見せていた活況ぶりはどの位続いたのでしょうか?
残念なことに、多くのワイナリーが設立され飛躍の準備が整った頃、
ナパのワイン産業に暗い影が見え始めます。
度重なる試練と窮地
フィロキセラによる被害
1890年代に入ると、ヨーロッパで猛威を振るったブドウの樹を枯らす害虫フィロキセラにナパのブドウ畑も襲われるようになりました。
1888年に15,807エーカーあったブドウ畑が、1900年には2,000エーカーを残すまでに激減し、ほぼ壊滅状態に陥りました。
ところが、ナパの試練はそれだけではありませんでした。
[フィロキセラの被害を受けたブドウの樹を植替える生産者]
提供:Napa Valley Vintners
最大のワイン市場の喪失
1906年に起きたサンフランシスコの大地震。この地震でサンフランシスコの倉庫に保管していた3,000万ガロンのカリフォルニアワインが被害を受け、ナパ産のワインも1億5千万本以上が割れたと言われています。
最大の市場であるサンフランシスコを失ったナパのワイン産業。これはフィロキセラの被害に苦しむ中、追い打ちをかける大きな痛手となりました。ナパの人々にとっては、まさに弱り目に祟り目といった心境であったに違いありません。
そして、これに終わらず 更なる不運が待っていることを、この時誰が予測したでしょう。
[ナパワインに被害を与えた1906年のサンフランシスコ地震]
素材元:Genthe photograph collection, Library of Congress, Prints and Photographs Division.
アメリカの経済不況
フィロキセラ被害から立ち直り、やっとナパワイン産業が戻り始めたころ、1893年恐慌と呼ばれる、アメリカ合衆国の深刻な経済不況が始まります。
金融業界は大混乱に陥り、ワインの消費量は減少、実業家がワイン業界から続々と撤退し多くのワイナリーが廃業となりました。
[1893年5月のニューヨーク証券取引所の様子]
素材元:Library of Congress Prints and Photographs
禁酒法の発令
1920年、禁酒法の発令によりアルコールは製造・販売が禁止され、あろうことかナパのワイン造りはその道を閉ざされてしまいます。
禁酒党や禁酒連盟の結成など、施行以前から禁酒を求める動きはありましたが、1917年にアメリカの第1次世界大戦参戦を受けてアルコールの禁止が承認されると、禁酒を求める声は一層強くなり、ついには禁酒法が施行されたのでした。
ワイナリーの80%は閉鎖し、経験と技術を持った醸造家たちもワイン業界を去っていき業界は衰退していきます。
[禁酒法時代、下水道に廃棄される密造酒]
素材元:Library of Congress Prints and Photographs
再生への兆し
再三の試練と窮地に見舞われたナパも、1933年の禁酒法解禁により一筋の光が見えてきます。
禁酒法の解禁当初、ナパには12軒のワイナリーしか残っていなかったと言います。禁酒法で許されていたのは教会用、医薬品、限られた量の家庭用醸造のみ。そうした状況下で生き残ってきたのは、厳しい法の下で歯を食いしばり、何とかワイン製造をつないできたワイナリーだけだったのでしょう。時には密造という手段を取ることもあったそうですから、大変な苦労があったことは想像に難くありません。
度重なる不遇により壊滅危機であったナパのワイン産業は、第2次世界大戦が終わると「改革」と「戦略」により再生の道を歩き始めます。そしてナパをワインの銘醸地として押し上げていくことになります。
[禁酒法撤廃を喜ぶ従業員]
提供:Napa Valley Vintners
復活へのカギ
フランスから取り入れた新しい手法によるワイン造り
ナパがワイン産業の再生にあたって試みたのは、ワイン大国フランスから技術者を招き、旧世界のワイン技術を取り入れることでした。
フランスから招き入れた技術者の中で最大の立役者となったのは、何といってもパスツール研究所のワイン研究学者であったチェリチェフだったでしょう。
チェリチェフは温度管理の下での発酵、小さなフレンチオーク樽での熟成、クリーンな管理といったアイデアを伝授します。
それまでは大きなアメリカンオーク樽で感覚的に熟成が行われていましたが、小さなフレンチオーク樽に変えたことで、丁寧な発酵と行き届いた管理を実現することができました。
新たな手法がワインの味わいに変化をもたらしたのは言うまでもありません。
ヨーロッパの冷涼な気候で育つ木を使用したフレンチオーク樽は密度が高く、穏やかな香りときめ細かいテクスチャー(味わい)が生まれます。香りや味わいがゆっくりと醸されるため、2年程の時間をかけてじっくりと熟成させるポリシーを持ったワイン造りに好ましい製法です。
一方、アメリカンオーク樽のワインはメイプルシロップやブラウンシュガーのような華やかで甘い香りが特徴。派手さが長所ではありますが、香りがワインに移るのが早いので、長期熟成には向きません。
ナパの作り手はフランスから旧世界の技術を取り入れることで、より繊細で複雑な味わいのワイン造りへと方向転換していったのです。
[チェリチェフ]
提供:Napa Valley Vintners
巧みなマーケティング戦略
ワインの製法を見直し品質向上を目指す一方で、ナパワインを世界に広めるための知恵を働かせる人物も現れました。
世界中の偉大なワインと肩を並べるワインをカリフォルニアで造る」というヴィジョンを実現した「カリフォルニアワインの父」と呼ばれるロバート・モンダヴィです。
1966年にワイナリーを設立したモンダヴィは、”ワインによるもてなし”という点に目をつけ、ワイナリーに試飲ルームを設けてお客様を迎え入れることを始めました。これが功を奏し、ナパのワインは少しづつ世界に知られるようになっていきます。
モンダヴィは巧みなマーケティング戦略で、ナパヴァレー・ルネッサンスのけん引という大役を担いました。
いかに素晴らしいワインであっても、それを世に送り出す知恵がなければその良さを伝えることはできません。話題作りに長けたクリエイターの存在は、ナパ再生の大きな戦力であったことでしょう。ワイン大国フランスの技術と、消費者の心理をとらえたマーケティング。 臆せず新しいことに挑戦していく精神に、ナパ復活のカギを見た気がいたします。
[ロバート・モンダヴィ]
提供:Napa Valley Vintners
次回は、ワイン王国フランスに勝利し、ナパのワインを世界に知らしめた伝説の「パリスの審判」についてご紹介したいと思います!